タンポポ摘んで
穏やかな陽射しの中、小川の辺で童女が蹲っている。
透けるように白い面の左の頬っぺたが微かに赤く腫れているのが痛ましい。
くすんくすん
小さく鼻を鳴らしながら、一心にタンポポを摘み取っている。
「泣いたら前が見えなくなっちゃうからね。泣いては駄目よ」
以前母に言われたようにひたすら目を大きく見開き、涙を零さぬようにしている。
「お? 若菜じゃないか?」
壮年の男の声が小さな背に降ってきた。
けれど少女は振り向かない。
ぷちりぷちりとタンポポを摘み続ける。
「どうしたの?」
「浮しゃん・・・」
ふわりと少女の体を抱き上げて、腕の中のその顔を覗き込んだ男がニヤリと笑った。
目の淵に湛えた大粒の涙の中に町人姿の男が映っている。
「なんだい、おっ母さんに叩かれたのか?」
相手が女子であれ、鉄拳制裁も辞さないセイを思い浮かべて
浮之助が苦笑を滲ませる。
けれど若菜はふるふると首を振った。
総司も総三郎も溺愛している若菜に手を上げる事はありえない。
身内で無いなら誰が・・・。
浮之助が目を細めて問いかける。
「誰に叩かれたんだい?」
小さな手の平に握り締めたタンポポを口元に押し付けて、しばらく逡巡した後
ようやく若菜が口を開いた。
「・・・しげくん」
ポソリと音がするような声音だった。
「ほほぉ・・・」
浮之助の頬に辛らつな笑みが浮かぶ。
十番隊組長原田左之助の息子茂は、若菜の兄総三郎より一歳年上の少年で
今年から局長付きの小姓として入隊したと聞いている。
父に似て大らかではあるが、時としてそれが粗暴にも転ずることを
周囲の大人たちは知っている。
それでも無意味に幼い者を苛めるような愚かな人間ではない。
「どうして叩かれたのか言えるかい?」
とにかく理由を聞こうと浮之助が優しく声をかけた。
「・・・・・・・・・」
若菜の瞳にジワリと涙が盛り上がる。
それでも少女は口を開いた。
「あのね・・・しげくんが、若菜がふくちょーのお嫁様になるのは無理だって言ったの。
若菜はちっさいし母上みたく綺麗じゃないから・・・」
ポロリと一粒、滑らかな頬に涙が伝う。
「だから若菜がしげくんを打ったの。どんって。そしたら、しげくんが・・・」
ぽろりぽろりと白絹の頬を涙が転がる。
ひくりひくりと涙を堪えようとする姿がいじらしい。
「そうか。若菜は副長のお嫁様になりたいんだもんなぁ」
他の誰にも見せた事の無い穏やかな笑みを浮かべ浮之助はこくりと頷く
少女を抱き直す。
「でもね。茂は若菜が可愛いんだよ」
総三郎が溺愛する妹を守る為に土方を警戒するような事を茂はしない。
未だ五つになるかならぬかの童女に十五になる少年が
恋情を持っているとも思えない。
けれど生まれた時から身内同然でいた自分よりも、ずっと年上の土方を
特別扱いされる事に我慢がならなかったに違いない。
だからつい憎まれ口を叩いてしまったのだろう。
不器用な少年の不器用な愛情が、この童女の頬の腫れなのかとクスリと笑った。
「それで? どうしてタンポポを摘んでいたの?」
あまりに強く握り締められていたせいで、くたりと力なく頭を垂れた
日輪色の花を差して尋ねる。
「母上が言ったの。ごめんなさいって言う時は、若菜の大好きな物を
“どうぞ”って渡していっぱいいっぱい謝りなさい、って」
「なるほど」
つまりこの少女は自分が悪いと思っている訳だ、と苦笑する。
幼い悋気で八つ当たりされたにも関わらず、
頬が腫れるほどに叩かれたにも関わらず・・・
大好きな相手を怒らせてしまったと馬鹿正直に気にしている。
自分の事は二の次で相手の気持ちを思いやる、愚かしいほどの情の強さ。
浮之助の脳裏に出会った頃のセイの姿が甦った。
(確かにアンタの娘だよ、清三郎)
「でもさ、一人でこんな場所まで来たらいけないなぁ」
この場所は確かに麗らかな陽射しに温められてタンポポが群生しているが、
屯所からも若菜の家からも近いとは言えない。
きっと今頃は大人たちが大騒ぎしている事だろう。
「もう一杯タンポポは摘んだだろう? 浮さんと一緒に帰ろう?」
その言葉に若菜がコクリと頷いた。
ここに来るまでは花を摘むことしか考えていなかったが、
今は遠くまで一人で来た事を叱られるのが心配になっている。
「大丈夫だよ。浮さんが一緒に謝ってあげるから」
悪戯っぽく笑うと、抱き上げたままの童女の顔を覗き込んだ。
「ただし、もう絶対に一人でこんなに遠くヘ来ないって約束できるかい?」
「うんっ!」
その言葉に若菜が全身で頷いた。
「はははっ。じゃあ帰ろう」
ねぐらに帰るカラスの鳴き声が遠く近くに響いてくる。
夕暮れ近い京の路地をゆるりゆるりと男が歩む。
背後には童女を見かけた初めから、ずっと感じていたよく知った気配。
温もりの安堵感から腕の中で深い眠りに落ちてしまった少女を抱えなおして
浮之助が背後を振り向いた。
「そろそろ出てきなよ」
「やっぱり気づいていたんですか」
近くの路地から照れたような笑みを浮かべて総司が現れる。
「そりゃ、こんな時間まで誰も探しに来ないなんて有り得ないしね」
「ははっ、確かに」
総司が浮之助の元に歩み寄り、腕の中から若菜を受け取った。
小さな温もりを失った事に一抹の寂しさを覚えながら、浮之助が若菜の頬に
手を伸ばし優しく撫でる。
「可愛いほっぺたなのにねぇ。こんなに叩かなくてもさ・・・」
その言葉には隠す気も無いのだろう、強い不快感が滲んでいる。
「ああ、それはね、誤解なんですよ」
本来であれば最も怒りに燃えるはずの総司の言葉に浮之助が不思議そうに
続きを促した。
「若菜が茂を叩いているうちに、後ずさっていた茂が縁から落ちかけたんです。
で体勢を戻そうとしたはずみで若菜の頬に手が当たった、と」
土方さんが一部始終を目撃していたんです、とクスクス笑う。
「ただ茂も素直じゃないですからねぇ。“若菜が悪いんだっ!”と怒鳴ってしまった。
まあ、わからないでもないですよ。妹同様に可愛がっている子が
自分のせいで頬を腫らして泣いていたら混乱もするでしょうし」
浮之助は内心で大いに首を傾げる。
たとえ不可抗力の結果だとしても、愛娘がそれほどに傷つけられて笑って
いられる男ではないはずだ。
「おい、それで茂は?」
静かに若菜へ視線を落とした男がひどく楽しそうに眼を細めた。
「原田さんがね・・・どんな理由があろうと、女子供に手を上げるなんて
男じゃないって・・・」
喉の奥から笑みを漏らしながら言葉を続ける。
「ボコボコにされてましたからねぇ。今頃顔の造作が変わっているんじゃ
ないですかね・・・」
飛び出していった若菜を探しに屯所を出る前の光景が甦る。
鬼の形相で息子を殴り飛ばす原田と、必死に事情説明をしながら
その行為を止めようとする土方とセイの姿が。
殴られながらも謝る事をせず、あえて罰を受けようとするかのように
無抵抗だった茂の姿に憐憫を感じないわけではないけれど。
そろりと若菜の腫れた頬に触れる。
可愛い娘に傷をつけたのだ。それなりの痛みは感じてもらわなくては。
薄い笑いを浮かべたままの総司の内心など、浮之助には
手に取るように理解できた。
全く妻子の事となるとこの男はとことんタチが悪いと、こちらも苦笑する。
「で? アンタはこのまま家に帰るのかい?」
「ええ。今夜は夜番だったんですけどね。お詫びにと原田さんが
代わってくれたので、これから家族団らんですよ」
「ふうん。でも一度は屯所に戻らないと、若菜が納得しないぜ?」
その言葉に総司が浮之助を見返す。
「なんでも、そのタンポポ。仲直りの印にって一生懸命摘んでたらしいからね」
眠っていながらも若菜が握り締めたままのタンポポが、光を纏っているようだ。
素直な思いが詰まっているだろう花を、総司は無言で見つめる。
「無駄にしたら可哀想だと思うけど?」
駄目押しのような浮之助の言葉に溜息を落とした。
確かにこのまま家に戻ったとしても、目覚めた瞬間から原田の家へ行って
茂に謝るんだと言い張るのだろう、この娘は。
「仕方ないですねぇ。本当にそういう頑固な所はセイに似てるんですから。
たぶん今頃は屯所でセイが茂の手当てをしてるでしょうし。
そっちに回ってから帰る事にしますよ」
まったくもう・・・と総司がぶつぶつ言う声が夕暮れの中散ってゆく。
その後姿に一声かけて浮之助は彼らに背を向けた。
おそらくぼこぼこに殴られたという茂の様相を見て、心優しいあの童女は
盛大に泣き騒ぐのだろう。
困惑する周囲の大人達を思うと笑いがこみ上げてくる。
近々その顛末を聞きに行こうと考えながら、浮之助は夕闇迫る街に消えていった。
絵 : uta様